悲劇の天才エンジニア一J・B・ランシング一
JBL・・・この美しい響きの3文字はオーディオに興味をもった人なら一度は耳にする名前です。これは今世紀初めに生まれ、今日のスピーカー技術の基礎を築いた一人の男、ジェームス・B・ランシングのイニシャルに由来するのです。生涯を音に捧げた彼の足跡を乏しい資料と記憶から紹介したいと思います。
1902年(誕生)
イリノイ州の鉱山技師ヘンリー・マーティニ夫妻の9番目の子として誕生。本名はジェームス・マーティニといいました。
父は職業柄転勤が多く、彼は全米各地を転々とするのですがミシガン州の「Lancing」という町の名が気に入っていたようで後に改名してジェームス・バロー・ランシングと名乗るようになります。因みにミドルネームのバローも彼のお気に入りで子どもの頃、父の転勤で一時預けられた家が「バロー家」だったからだそうです。
少年時代の彼は機械いじりや電気が好きで自作に没頭する毎日だったようです。しかも大変な天才だったらしく12才の時に早くもその片鱗をうかがわせる事件が起きます。彼が作った小型無線機があまりにも高性能だったためその電波を時の海軍無線局にキャッチされ無線機は海軍の手で没収、処分されるというエピソードが残っているのです。1914年といえば第一次世界大戦勃発の年。この時期の無線機は軍事機密に近い物だったのでしょう。アメリカRCA社がラジオ放送を始めたのが1920年、同じく日本のNHKは1925年だったことと思い合わせると彼の天才ぶりが分かるでしょう。
その後、カレッジを卒業してからは自動車修理工として働いていた時期もありました。
1924年(22才)
母が亡くなると家を出てソルトレークシティに移り、ここでラジオ放送局の技師として働くことになります。この時期のラジオ用スピーカーはろくな物が無く彼は技師として働く傍ら高性能スピーカーの開発に没頭します。
1927年(25才)
ソルトレークで知り合ったケン・デッカーと一緒にロサンゼルスに移り、ラジオ用スピーカーの製造を始めます。会社の名は「ランシング・マニュファクチャリング社」。この頃、映画業界ではトーキーが始まり、高性能な劇場用スピーカーの需要が高まりつつある時期でした。
1934年(32才)
前年にMGM映画社から劇場用スピーカーシステムの製作の依頼を受けたランシングは全力を傾注し、ついに「シャラーホーンシステム」と呼ばれる大型劇場用2ウェイスピーカーシステムを完成させます。
このシステムは1936年には映画芸術科学アカデミー賞を受賞。1937年発表の小型システム「アイコニック」も大きな成功をおさめ、JBLサウンドの原点を確立するとともにランシングの名を広く世界に知らしめる事となりました。
1939年(37才)
会社経営の片腕として全幅の信頼を寄せていたケン・デッカーが飛行機事故でこの世を去ると事業はたちまち経営困難に陥ります。多くの天才技術者がそうであるようにランシングも経営に関しては全く無能だったらしいのです。
1941年(39才)
ついに経営に窮したランシングは会社をアルテック・サービス社に売却。アルテック・サービス社ではこれを「アルテック・ランシング社」という子会社として設立し、ランシングを技術担当副社長に迎えます。ボイス・オブ・ザ・シアターで有名なアルテックの栄光の歴史はここから始まるのです。
設立当初の従業員は30名。ランシングがアルテック在籍中の5年間に開発した製品としては1943年の同軸型604スピーカーをはじめ、515ウーファー、288ドライバー等、その後のアルテックの基礎を築いたといっても過言ではない名ユニットばかりです。その後もアルテック社はプロ用音響機器の分野で発展を遂げ1975年には社員数も1000人を超えるまでになっています。
1946年(44才)
アルテックとの契約期間は5年間だったため、ランシングはアルテック社を去ることになります。何故、契約を更新しなかったのかは不明ですが、「自分はもっと美しい家庭用スピーカーを作りたいのだ」と言ってアルテックを離れたという事です。そしてこの年JBL社(ジェームス・バロー・ランシング・サウンド社)が設立されます。
1947年(45才)
38センチフルレンジユニットの傑作D130完成。その後、D131、D208、175ドライバーといったJBL社初期のユニット群が作られました。これらの製品はアルテック時代のユニットとともに50年を経た現在でも多くのファンが愛用しています。
1949年(47才)
「もっと美しい家庭用スピーカーを作りたい」と言ってJBL社を興したランシングでしたが、残念ながら彼自身はそんなスピーカーを見ることも聴くこともできませんでした。なぜなら会社の発足当初から例の経営音痴がまたもや彼を悩ませていたからです。彼は優れたエンジニアではありましたが仕事に没頭すると、周囲の事が全く見えなくなるタイプで、気がつくと莫大な借金が彼の前に立ちはだかっていたのです。かくして1949年9月24日、ランシングは工場裏の日頃お気に入りだった一本のアボガドの木にロープをかけたのでした。
ランシングは亡くなりましたが彼の意志と情熱は残された社員に受け継がれ、JBL社は奇跡の再建を遂げます。生前のランシングその人に惹かれてJBL社に入ったウィリアム・H・トーマス新社長のもと、彼らは懸命に会社を立て直し、ランシングの夢であった「美しい家庭用スピーカー」を次々と世に送り出しました。
1954年発表のD30085「ハーツフィールド」は翌年のタイム誌の表紙を飾り「究極のスピーカー」とまで絶賛され、JBLの名は一躍世界に轟くことになります。さらに1957年にはオールホーンのステレオスピーカー「パラゴン」を発表。木工芸術品と呼びたくなるような優美なスタイルのこのスピーカーは1988年、木工職人のリタイアが理由で生産を完了するまで実に31年間もの長きにわたって作り続けられたのです。
1960年代に入ってからは業務用スタジオモニタースピーカーの分野にも進出。
アメリカ公演に来ていたビートルズがその音の良さに感心し、早速イギリスに持ち帰って自分たちのスタジオに入れたということです。又、この時期にトランジスターアンプも開発。T型サーキットと呼ばれるソリッド・ステートアンプの基本となる回路を発表しています。
その後のJBLの発展や数々の魅力的な製品については周知の通りです。
ランシングが他界してすでに半世紀が過ぎました。彼自身は非業の死を遂げましたがしかし彼の意志は間違いなく時を越えて受け継がれました。かたくななまでに妥協を拒み常に完璧を指向した彼の生涯はまさに「音」に捧げた一生でした。彼が目指した「美しく高性能な家庭用スピーカー」が奏でる音は今日でも世界中の多くの音楽愛好家の心を捉え、又、今なお多くのオーディオファンを魅了してやまないのです。
J・B・Lの3文字とともに。